先哲の故教を温ねて現代に活かす【その1】

 ※本編はリーダー論について2006年に執筆したものです。
 

■はじめに・・・論旨概要

 
   

 いつの時代もリーダーの果たす役割は大きい。
過去の常識で計ることのできない情報の量と氾濫、複雑で多岐にわたる社会構造。
それに輪をかけた政治家のさまざまな不祥事。さらに格差社会、教育問題、イラク問題、北朝鮮問題、パロマ事件、不二家不祥事などなど・・・。
 リーダーの誤った判断と決断は、国家・企業が存亡の危機にいたる。
混乱・混沌の乱社会は、今に始まったわけではなく、数千年昔から幾度となく繰り返されている。過去のリーダーたちは、その折々の乱社会を乗り切るために「先哲の古教」を、よく学んでよく撥(おさ)めて、継体守文をよく実践した。
 しかし最近では、先哲の古教に学ぶなどということは皆無にひとしく、卒業大学や資格などが人間の価値を決める「知識」偏重社会になっている。

 ところが、ドラッカーは『知は、自然の理の中に隠されている』としている。そして「知」は、科学と技術を集積したものであると定義し、その「知」は、自然の理である宇宙の進化・造化・生成化育にあるという。  宗教では、自然の理を道といい、日本の古神道は『自然は道であり、徳である』と説いている。徳は、公平無私・大公無私でなければならない。公平無私・大公無私は、人間観を修養させ人格の本(もと)をつくる。それが道である
 ドラッカーの「知と自然の理」を私的に解釈・要約すると、自然の理である人間観と人格に「知」を集積して生かすことが叡智になる。人間の「叡智」は、すべてを視通(みとお)す目・洞察力が養われる。それが「公(おおやけ)」へと生成発展し進化・向上して、正しい人間へと成長していく。「知識」という刀の刃を研いで、一刀両断に切り捨てたとしても自己満足であり、モノゴトの本質を見極めて核心を突くことは困難なことである。
 本論では、人間観を修養し人格を磨くことで、知識が現実社会に生かされることを考察・検証し、真のリーダーのあり方・定義を論証する。


   
 

■第一章 リーダーについて

 
   

 リーダーが情報を判断するときに具(そな)えておかなければならない指針・着眼点を考察する。 この国の国民性に「事なかれ主義的発想」があるにもかかわらず明治維新を成し遂げた。 その実践力は、儒学の孔孟思想に学ぶところが多く、今の時代に底流ながら脈々と生きている。

@上に立つ者の凡事徹底
 ある地位につけば、権限を与えられるとともに責任を持たねばならない。地位がないときには、上から与えられた仕事をソツなくやりさえすれば良かったが、指揮監督をするようになると、与えられた任務・仕事をどのように受け止め、どのように処理するかという判断力が特に必要となり、できないでは済まされない責任が求められるようになる。
 例えばある問題があったとして、自分の権限で処理しておいてよいことと、自分で処理するが上司に報告すべきことと、上司に相談し結果を報告することというふうに分かれてくる。その判断ができないようでは、組織のなかでの責務は果たせない。
 「南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)」には、『身を修め己を正しくして君子の体(てい)を具(そな)うるとも、処分のできぬ人ならば木偶(でく)人も同然なり』とあるが、現実に働いている実社会では、「分かりません できません」では済まされない。特に組織の中で責任を持つ地位にある者は、ナンとしてもその場で処理しなければならないことが起きたとき、その判断力が重要な資格となる。
 これには、日頃からそのような学問をし、習練を積んでおかねばならない。その学問は、単なる知識の習得ではなく、モノごとを判断できる見識を備えることは言うまでもない。

 モノごとを判断するに当たって次の三点に着眼していけば大きな間違いはない。
  第一は、目先の利益にとらわれずに長期的に見ること。
  第二は、自分からだけではなく相手方や第三者の立場からなど多面的に見ること。
  第三は、派生した枝葉末節に惑わされずに根本的に見ること。
の三点であるが、モノごとを判断するときの原則といえる。

 部下を持つ以上、職務について部下を指導し模範となる実力を持つべきことは言うまでもないが、責任ある職務者として、状況を判断し処理する能力を育てることを忘れてはならない。そのために学ぶ(他から教わる)ことは最も必要なことだが、その学んだ知識を見識にまで育てる「思うこと」(自らのモノにする)が求められるのである。
「論語」に『学びて思わざれば即ち罔(くら)く、思いて学ばざれば即ち殆(あやう)し【※附則1(論語・・守屋洋 訳)参照】と、このことが教えられている。


   
 

【※附則1】
■論語 学而篇「学びて思わざれば罔(くら)く、思いて学ばざれば殆(あやう)し」
 子日、学而不思則罔、思而不学則殆。

 
   

 孔子は言った。 『読書に耽って思索を怠ると、知識が身につかない。思索のみに耽って読書を怠ると独善的になる』 これも孔子の経験談であろう。
 たしかに、人間には調べ派と考え派と、両タイプありそうだ。調べ派は黙々と資料を集めて手際よく整理する。しかし、この派の中には、ややもすると資料倒れになりがちな人がいる。考え派は資料集めにあまり熱心でない。最小の資料から推論し、結論を導くほうに興味を覚える。自分ではよく考えて得心がいったつもりでも、経験者が見ると事実関係の調べ方が行き届いていないための誤認がすぐわかる。これでは、一方は罔(くら)く、一方は殆(あやう)いと孔子は言う。むろん両方がうまく噛み合うのが理想だ。しかし、どちらかというと、孔子自身は調べ派の方に肩入れをしていた。
 『われかつて、終日食らわず、終夜寝ず、もって思う。益無し。学ぶにしかず』私の経験で言うと、昼も夜も寝食を忘れて思索に耽ったところで、大した収穫は得られない。やはり、読書をするのが早道だ、としている。

   
   

>>>次回へ続く