いつの時代もリーダーの果たす役割は大きい。
過去の常識で計ることのできない情報の量と氾濫、複雑で多岐にわたる社会構造。
それに輪をかけた政治家のさまざまな不祥事。さらに格差社会、教育問題、イラク問題、北朝鮮問題、パロマ事件、不二家不祥事などなど・・・。
リーダーの誤った判断と決断は、国家・企業が存亡の危機にいたる。
混乱・混沌の乱社会は、今に始まったわけではなく、数千年昔から幾度となく繰り返されている。過去のリーダーたちは、その折々の乱社会を乗り切るために「先哲の古教」を、よく学んでよく撥(おさ)めて、継体守文をよく実践した。
しかし最近では、先哲の古教に学ぶなどということは皆無にひとしく、卒業大学や資格などが人間の価値を決める「知識」偏重社会になっている。
ところが、ドラッカーは『知は、自然の理の中に隠されている』としている。そして「知」は、科学と技術を集積したものであると定義し、その「知」は、自然の理である宇宙の進化・造化・生成化育にあるという。
宗教では、自然の理を道といい、日本の古神道は『自然は道であり、徳である』と説いている。徳は、公平無私・大公無私でなければならない。公平無私・大公無私は、人間観を修養させ人格の本(もと)をつくる。それが道である
ドラッカーの「知と自然の理」を私的に解釈・要約すると、自然の理である人間観と人格に「知」を集積して生かすことが叡智になる。人間の「叡智」は、すべてを視通(みとお)す目・洞察力が養われる。それが「公(おおやけ)」へと生成発展し進化・向上して、正しい人間へと成長していく。「知識」という刀の刃を研いで、一刀両断に切り捨てたとしても自己満足であり、モノゴトの本質を見極めて核心を突くことは困難なことである。
本論では、人間観を修養し人格を磨くことで、知識が現実社会に生かされることを考察・検証し、真のリーダーのあり方・定義を論証する。
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