先哲の故教を温ねて現代に活かす【その2】

 ※本編はリーダー論について2006年に執筆したものです。
 

■第一章 リーダーについて(前回の続き)

 
   

A日本人の思想・哲学と武家社会

 日本人の思想体系は、徳川時代の武家社会によって構築されたといえる。徳川時代の思想学問には、儒学【※附則2参照】の孔孟思想を基礎とした学問に朱子学と陽明学【※附則3参照】がある。
 徳川家康は、藤原惺窩(せいか)(朱子学者)の門弟である林羅山(らざん)を儒学の侍講(貞観政要・孟子・吾妻鏡(あづまかがみ)=頼朝草創期の幕府政治のあり方)として任じ、朱子学を徳川幕府の御用学問として幕校を昌平坂学問所に置いた。ところが幕府の敷いた朱子学は、時間の経過とともに、理論(知識)・カタチ(仁・義・信・礼・智)の礼儀・礼節・伝統・様式を重んじるだけで行動力も実践力もなく形骸化していった。その一方で陽明学が中江藤樹【※附則4参照】によって掘り起こされ、「知ること・行うこと」を同一次元(知行合一・致良知)とし、日本人の精神構造上において、仏教・キリスト教・日本古来の古神道と融合し実践向きとしての広がりをみせた。
 江戸・元禄時代の赤穂浪士の吉良邸討ち入りなどは、山鹿(やまが)素行(そこう)から陽明学を学んだ播州赤穂藩・大石蔵之助の徳川政治への最初の反乱とされている。この反乱も穿った見方をすれば「朱子学と陽明学」の戦いであったと言っても否定できない。その陽明学は、中江藤樹を敬慕する人々によって全国に教導されていく。
 しかし、藤樹の筆頭弟子である熊沢蕃山(岡山藩=池田光正(みつまさ)に財政藩改革の役目を任じられる)は、幕府に政治の危険思想として監視されたのち投獄、幽閉される。しかし、陽明学統の流れを止めることは難しく静かに潜行し全国に広がっていった。
 また、昌平坂(しょうへいざか)学問所・幕校の教授を務めていた佐藤一斉(重職(じゅうしょく)心得(こころえ)帖(ちょう)を著す)などは、昌平坂学問所で表向き朱子学を教えながら、裏では陽明学を教示していたとされる。その佐藤一斉(いっさい)に学んだ山田方谷(ほうこく)が、備中松山藩の財政再建・藩改革(交易=それを範として京都の高瀬舟が造られた)を行ったことは有名であり、山田方谷の財政再建・藩改革【※附則5参照】は、陽明学そのものであったとされている。また、方谷に学んだ人は多く藩改革の仕置きは全国への広がりをみせた。
 財政改革で知られる米沢藩の藩主・上杉鷹山なども、朱子学よりも陽明学に重きを置いた政治(藩財政改革)を実践したと考えられるところが史実として残っている。
 藩改革(藩経営=海外交易もあり藩内外交易もある)の政治と経済は、微妙に絡み合いながら時代の趨勢をつくった。当時のそれぞれの藩の財政・経済状態を検証すると、藩を潤していた豊かな財政は交易を行っている藩に多いことが分かっている。
 自国内、藩同士、または海外(蜜貿易も含む)の交易であっても、ともかく交易をしている藩の財政は潤っていたようだ。交易をしていない藩の財政は破綻状態であり、幕府は政治的に救済しようとするが、政治の主導権争いの思惑が複雑微妙に絡みあって幕府も世の中も翻弄され続けた。
 形骸化されたカタチを重んじる政治の状況下で、各藩は財政の建て直しを行うが成功にいたる藩は皆無といってなかった。そのような中でも備中松山藩の財政再建策は、山田方谷によって着実に成果を納めていた。方谷が藩改革を命じられたとき、藩の借財は十万両あった。それを八年で借財をなくし、逆に蓄財を十万両にした。その方谷の藩改革・財政の建て直しを範として、陽明学の知行合一の実践学が越中の長岡藩・河合継之助(長岡藩改革)へと伝播されていった。
 徳川時代の末期になってくると、陽明学統の流れを汲む大塩平八郎によって天保米一揆の騒動がおきる。これが、徳川政治への反乱の引き金になった。それに火がついたように、「薩摩・長州・土佐」の下級武士の反乱(制度の疲弊)は、1868年に徳川時代の幕を閉じ明治維新を遂げさせるにいたった。このような経緯を考えると、明治維新は儒学・王陽明論者が成しえた革命といっても差し支えない。これらの建て直しに成功した理由を考察すると、思想・哲学に左右されるところが大きく、今でいうところのビジョナリーカンパニーの魁でもある。現代の小さな政府か、大きな政府かという論議でもある「小さな政府(藩)」を支え続けたのが「陽明学」という思想であったと言ってしまえば早計であるかもしれない。しかし、その部分が非常に大きく影響している。

 堺屋太一氏は、「日本の盛衰」の著書の中で、『徳川幕府も、その当時、手をこまねいていたのではなく改革を実行していた』という。しかし、改革はしていたが実らなかった。
 その理由に『武士文化を越えられなかった』としている。『伝統と様式が大切であり、礼儀正しい武士でなければ、政治も行政もできない』という枠から踏み出すことができなかったからだとしている。武士文化を構築したのは朱子学(儒学)であり、朱子学統のカタチ(伝統と様式)を重んじる政治が幕府を解体させてしまった。皮肉にも、自分の首を自分で絞めてしまった。さらには敗戦後、アメリカはアジア極東戦略として、日本を属国化することを地政学的に位置づけた。そうすることはアメリカの国益に適うことであった。
 その後、アメリカ式の自由主義が日本国内を席巻した。自由と責任と義務の食い違いが日本の家庭教育と義務教育の中に浸透した。それが、平成になって新たな教育問題が政治問題として発展している。
 日本国民は、アメリカ式の自由という良識と「自分さえ良ければ、それで良い」という無責任主義を勘違いして習慣化してしまった。このことが背景になって戦後の高度経済成長は無責任な規格統一人間を生むことになる。日本人が古来から持つ相互扶助や連帯感の精神(DNA)を放棄・喪失したと言ってよい。
 アメリカから見た恐怖は、日本人が古くから持っている精神(DNA)が再燃することにある。日本人の持つDNAによって日本が再軍備することに異常なほどの恐怖感をアメリカはおぼえる。
 直近の例を挙げると「田中角栄元首相」などは日本人の平和的な発想で、エネルギー問題を政治に取り上げた途端アメリカに政治生命を絶たれた。角栄が、眠れる虎の尻尾を踏んだことに端を発して、コーチャン事件がロッキード収賄事件となって、即刻、政治生命を絶たれてしまったのは記憶に新しい。
 日本がエネルギー問題に触れると、日本を代表する首相であっても、いとも簡単に潰される。太平洋戦争も、エネルギーの資源問題に端を発しているのは歴史事実であり、アメリカの軍事的情報活動は、その昔から徹底しており、国益に沿わなければ日本の首相の政治家のクビを挿げ替えるくらいのことは朝飯前のようだ。日本はアメリカの属国であればよいというのがアメリカの考え方である・・・と言えばあまりにも身勝手な捉え方であろうか。
 これ等はアメリカの世界戦略(中国を視野←米ドルが世界基軸通貨)の一端だと解釈すれば、すべてに辻褄が合う。06年の中国を見据えた極東における軍事再編に、それが表れていると解釈するのが正しい見方である。
 その軍事再編支援金に、日本国は一兆円に近い予算を拠出する。私の独断と偏見で見ると、拠出金に見合うギブ&テイクの内容が曖昧のままであると言えるが、国家の最高機密と言われてしまえば、それ迄ではある。
 小泉元首相は、そこを知り尽くして、「毒を食らわば皿まで」で、アメリカに寄り沿っている。このようなことを背景に、例えば、角栄のエネルギー問題に似たような尖閣列島と北方四島のガス油田(ロシア主導で解決)がある。ところが、小泉元首相は、このエネルギー問題に対して、政治的に何の手も打たずに骨抜きにしてしまった。骨抜きにすることで小泉政権の延命策が採られた。それが、アメリカとの最高の蜜月時代と言われる由縁であると考える。
 穿った見方をすると、日本の首長である小泉元首相も「真のリーダー」ではないということになってくる。つまり、小泉劇場は政治生命の延命策に「あの手、この手」を使ったに過ぎない。であるとするならば、正統派の真のリーダーであるとは受け取れない。
 独断と偏見で現代の日本を観察すると、欧米式の知識偏重と徳川幕末の朱子学に似た知識偏重の社会風土、大きな声を出した者の勝ちという政治習慣に酷似している。  「真のリーダー」の生まれにくい土壌が、平成の今もできようとしている。

   
 

【※附則2】
■儒学について・・井上新甫著から

 
   

 儒教とは何か。端的にいえば、「どう生きるか」の学問である。
どう生きるかとは、どう生きがいのある人生を送るかであり、そのための教えである。孔子に子路という弟子がいて、あるとき孔先生に『死とは、何か』とたずねた。すると孔先生はこう答えた。『いまだ生を知らず、いずくんぞ死をしらん』と。
 いまだ生きるということを、本当に知らないのに、どうして死ということが分かろうかと。孔子という人は、非情に現実的実践的な人だったから、いま自分が向き合っているこの現実というものを大事にして考えた。もちろん死は人間にとって究極の問題である。極めて切実なことだけれども、鬼神や死という、形而上的な問題の解決よりも、もっと現実を見据えた、人間どう生きるかが先だということである。
 したがって孔子は、「怪・力・乱・神を語らず」と。
怪とは世にも奇妙なこと。力とは力をたのむこと。乱とは世の乱れや人の道を乱すこと、神とは神怪、怪異なことをさしている。どれもみんな現実的ではなく、正しい道ではない。人はあまりに窮すると、現実離れなことを夢想するものだが、孔子は、確かなものは目にみえる現実であるとしていた。
 孔子の時代からはるかに下って北宋という時代がある。この北宋の謝良佐(しゃりょうさ)(1050〜1103年)という人が『聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず』といっている。常とは、日常の現実であって現実ばなれの怪は語らない。また徳を語りて力を語らずとは人間の根本は徳性にある。この徳性をどうやって養い身につけるかが根本であって、怪力を養うことではない。
 治を語りて乱を語らずとは、人は先ず自らを修めることにはじまる。その修めた身をもつて国を治めるのであって、最初から乱を思うのは異常である。人間社会は、生身の人間あっての社会であり、その人間と人間社会をどうやって正すかが先である。
 人は人を離れたところに生きる世界があるわけではない。この人間社会が喩え気に入ろうが、いるまいが、この世界で生きるしかない。孔子は、こういう意味で極めて現実的実践的であった。論語に限らず古典を学ぶというのは、心身の修養にどうやって役立てるかであり、知識を衒(てら)ったり、読むばかりにつとめて、実生活には何の役にも立たないというのでは、孔子の精神が生きてこない。古典の意味もなくなってしまう。
 儒教とは、修己治人(しゅうこちじん)の学問ともいう。
修己とは字のとおり自分を修めることである。何を修めるかといえば徳性を養うことである。その養った徳をもって人々を感化し、世を安らかに治める。これが、修己治人(しゅうこちじん)である。
孔子が魯の国の宰相に、政治とは何かと聞かれたとき、孔子は、次のように答えた。魯というのは孔子が生まれたところである。
『政は生なり、子、帥(ひき)いるに正をもってせば、たれか敢えて正しからざらん』と。
政(まつりごと)というのは正という意味である。あなたが自ら正しい道を行ったら、世の中のだれか正しくならないものがありましょうか、これが、政治というものですと。
 政治は、先ず自らの身を正すことが先である。自らを正さずして、どうして国家を治めることができようか。いつの時代も政治倫理の問われぬことがないが、それは、政治そのものの問題ではなく政治家の堕落が原因である。教育も、わが身を修めるところに原点がある。わが身をもって教化すのが教育であり、それは、ちょうど火のそばに物があれば、自然に乾くように、水のそばに物があれば自然に湿るように、自ずから相手をして変化させることである。感化する、教化する、これが教えの本義である。
 ところが、いまやそのことをスッカリ忘れてしまったところに、わが国の教育荒廃に大きな原因がある。
 また、儒教とは修身・斉家(せいか)・治国・平天下の学問ともいう。
これは、大学の書物の中にある言葉で、天下が平和で安泰であるためには、わが身を修めることを以ってはじめとする。わが身が修まれば、家族がよく和合し、家族がよく和合すれば、国が治まり、国が治まれば天下は安泰である。すべてわが身、この一身の修養から出ており、わが身が修まらずして家族の幸せもなく国も安定せず、天下も安泰ではない。
 「どう生きるか」は、結局のところ「どう身を修めるか」に帰する。そこで儒教とは、どう生きるべきかの学問といっても、また修己治人(しゅうこちじん)の学問といっても、修身・斉家・治国・平天下の学問といっても、言い方は違えど真意は同じである。
 しかし、これだけで儒教とは何か、その狙いとするところを、おおむね分かってもらうのは無理だろう。そこで、さらに立ち入っていえば、儒教とは天地の生成化育を体認し、これを人間と人間社会に実現するための学問といえる。
 生成化育とは、地球上に春夏秋冬があるように万物生々のはたらきが生成化育である。このことを造化という。万物を生み育てる営みのことで、宇宙自然の創造変化、あるいは創造進化そのもののことをいう。
 造化の「化」とは変化である。同時に進化である。創造のあくなき向上、発展である。自然も人生もたえざる進展であり、大いなる化である。ちょうどオタマジャクシがカエルに成長するように、四つんばいの乳児がやがて二本足で立って歩くように、成長は変化であり進化である。
 この万物を生み育てるはたらきが、人間を通じて現れたとき、それを「徳」という。もっと端的にいえば、生を助け、生をどこまでも伸展させ、活力あらしめたり、あるいは、その方向を促すはたらきのことを「徳」という。といっても、それは特別な、はたらきや営みをいうのではない。もっとも身近な言行からはじまるのである。 これに反するのが、不徳である。

   
 

【※附則3】
■朱子学と陽明学

 
   

 朱子学(しゅしがく)と陽明学(ようめいがく)は、どこが、どう違うのか。難しい言葉ではあるが、難しく考えれば難しいし易しく考えれば易しいといえる。いずれも頭の良い人達が訳したり、本にしているので説明が難しくて、読んでも解りにくい。実生活に即していないので、さらに分かりにくくなってしまっている。学問的な解釈と説明になっているので、詳しく説明している人も何だか解らないらしく形骸化されている。 一言でいえば、朱子学が「頭を中心とした学問」で、陽明学は「心を中心とした学問」といってしまえば、極論かもしれないが、それが正しいといえる。

1)朱子学
@朱子学は現在の学歴社会
 現在の日本社会は、学歴社会、頭が良くて、勉強が出来て、偏差値の高い、有名大学を出ないと、人間では無い????何か偉い人間では、無いが如き風潮にある?また皆、そう思い込んでいる為に、国会議員の学歴査証事件が起きる。偏差値等で大学の格の差をつけている?・・・卒業大学で、人間の価値を決めているようだ?・・・親たちは、子供を偏差値の高い大学に入れる為に?・・・金をかけて、塾にやる?・・「勉強」、「勉強」で毎日尻を叩く?・・・

A朱子学は現在の官僚社会偏重
 国家公務員試験や、司法試験で人間を採用している。「キャリア」とかで、司法試験に合格した人間を、実際の経験がほとんどなくても警察署長や税務署長、大蔵官僚になっている。そして、官僚の地位のある人たちは、自分が、一番頭が良いと思い込んでいるから、国民が、バカに見える。言葉で国のため、国民のためと嘘を言ってだまし、自分は天下りで国民の税金を無駄遣いして、国の借金をどんどん増やす。日本国民は、馬鹿ではない。何時までも騙されることはない。

B中国の朱子学の時代
 この官僚の時代の今が中国の朱子学の時代(1130年〜1200年)に似ている。資産家や財閥が解体された日本の明治維新の時代と似ている。
 この時代に、行政機構が整備されて、官僚採用試験が始まったのです。官僚になれば「地位と名誉」が保証されるので学問に打ち込む。何と、現在の日本社会に、そっくりである。

C階級制社
 官僚採用試験で、人間の価値、階級を決める時代だった。そういう意味で、朱子学は頭の学問。人間は頭ばかしが総てではない。


2)人間陽明学
 人間には、頭に指示を出している頭より優れた心がある。陽明学は心の学問で、人間一人一人を大切にする。
 この学問を学ぶと人間の心の性質(習性)、姿がわかってきますから、人との会話で、いま相手が何を心で思っているか、考えているのか、何をしようとしているのか、相手の心が視通すことができるようになる。すべて洞察できるようになる。
 朱子学と陽明学の違いというのは、朱子学は理論一辺倒なのに対して、陽明学は、理論を実践行動しなければ、「人の心を洞察することはできない」という学問である。
 仏教の無我の心・境地と言えば説明がつきやすく、それは人間の「誠・真の愛・心」である。人間の心を洞察するには、自分の心に一点の曇り、やましい思い・ところがあれば相手の心を洞察することはできない。
 人間は欲があるから詐欺にだまされる。お金が欲しい、もっと欲しいと、いつも、そう思っているから、だまそうとする詐欺の心が読めず、だまされてしまう。いくら学問を積んで、学んで、頭に詰め込んでも、知識、知恵を知っても、知っただけでは何にもならない、どうにもならない。その学んだ知識、知恵を、実践行動して、心に感じ取らせる、心に気づかせる、そのような経験を積まないと、真の言葉の深い、意味、内容は理解できないのが人間だ、と言っているのが陽明学である。
 現在の勉強は、実践経験のない人達(学者)が、昔の資料を読んで勝手に自分で解釈して訳したために、昔の言葉が多く、漢字が多いために教科書が難しくなっている。
さらに、それを教科書だけの講義をするから益々理解できなくなっている。
朱子学も、陽明学も、仏教も、宗教も、哲学も、古神道もすべて人間の幸せな生き方を説いている。

   
 

【※附則4】
■中江藤樹

 
   

 中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者。晩年、中国明代の儒学者・王陽明のとなえた『致良知』の説を最高の教学として示したことから、《日本陽明学の祖》とされている。また数多くの徳行によって《藤樹先生》と親しまれ、没後には《近江聖人》とたたえられる。
慶長13年(1608)3月7日、近江国高島郡小川村に生れる。
15歳、祖父吉長よしながの家禄をつぎ伊予の大洲藩士となる。
27歳、大洲藩士を辞して(脱藩)小川村に帰郷する。
 以後、慶安元年(1648)8月25日、41歳で没するまでの14年間、居宅に私塾《藤樹書院》をひらき、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」をおしひろめた。
代表的門人に熊沢蕃山(くまざわばんざん)・淵岡山(ふち こうざん)・中川謙叔(なかがわけんしゅく)・泉仲愛(いずみ ちゅうあい)・中西常慶(なかにし つねよし)らがいる。
おもな著書に『翁問答(おきなもんどう)』『鑑草(かがみぐさ)』『孝経啓蒙(こうきょうけいもう)』『論語郷党啓蒙翼伝(ろんごきょうとうけいもうよくでん)』『大学考(だいがくこう)』などがある。

   
 

【※附則5】
■炎の陽明学(山田方谷伝)・・・矢吹邦彦 著から 

 
   

 陽明学は危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学ともいわれている。日本の社会には、現代においてすら、陽明学のリベラリズムを、危険な香りを放つ反体制的思想と捉える土壌が根強く残されている。
 この傾向は、王陽明を誤って理解した作家、三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」を発表した直後、市ヶ谷の陸上自衛隊に乗り込んで凄惨な割腹自殺を遂げた衝撃事件によって助長されたといえよう。
 中国の明の時代、王陽明によって樹立された陽明学は、人間の一人一人をそれぞれの理と気を備えた小宇宙そのものであるとみなした。
 生きている人間とは、密度の高い気の集合体であり、気の分散によって死を迎える。しかし、人間は単なる気の集合ではない。肉体は気の集合体でできているが、同時に、生まれた時から心を持っている。『心即理(しんそくり)』心は宇宙の本質である理に外ならない。
「心を鏡のごとく磨け。人は磨ききった己の鏡の心をよりどころとして行動せよ。知っていながら行わないということは、まだ知らないに等しい。」これが王陽明の説く陽明学の真髄である。徹底的な唯心論であり、個人の内面の独立性と自由、独立不羈(どくりつふき)を鼓舞した思想である。
 中国から十六世紀に伝来した陽明学は、葉隠れの武士道と深く結びついて、救世済民の実践哲学として日本の土壌に根付いた。しかし、大塩平八郎、吉田松陰、河合継之助、西郷隆盛と、陽明学の信奉者は、ことごとく壮絶な最期をとげている。自らと政治的実践行動とのあいだに一線を画した白足袋の陽明学者は別として、経世済民に走った陽明学徒の人生は、きまって悲惨であり不遇であった。
 ただ一人例外がいる。幕末から明治維新にかけて、激動の真っただ中を、最期まで己の信念と行動を貫いて疾走した山のごとき巨人がいた。この人こそ陽明学の泰斗山田方谷だった。
 岡山市と鳥取県の米子市を結んで、JR伯備線が日本列島を横断している。岡山から出発すると一時間足らずで、鄙びた小都市、備中高梁に着く。ここが、元の備中松山藩である。市街地を北方にはずれた海抜420メートルの臥牛(かぎゅう)山山頂には、国の重要文化財である松山城の天守閣がそびえ、代表的な日本の山城として名高い。
 備中高梁駅から数えて三つめの駅が、世にも珍しい人名駅の方谷である。この駅の存在を知る人は郷土の関係者か、あるいは、よほど詳しいJRマニアのみであろう。
 山田方谷とは、いかなる人物だったのであろうか。一言でいうなら、リストラの天才である。江戸時代をとうして、これほど見事なリストラクチュアリングを完遂した改革者は他にいない。不況になるたびに取り上げられる上杉鷹山や将軍吉宗の改革など、その血みどろのストイックな辛酸苦労はともかくとして、経済知識と発想、成果において大人と子供ほどの違いがあり、比較にならないのである。
 だが、今日では、理財(財政)の天才として、幕末の江戸時代、日本国中に喧伝された備中松山藩の山田方谷の名前を知る人は少ない。そのあまりに見事な、斬新で完璧なばかりの成功の故に、一地方の例外中の例外とみなされ、ついに悲劇と破綻にみちた改革の歴史の枠からはじかれてしまったのではないか、と疑われるほどである。
 「昭和」に続く現在の「平成」の年号を命名したのは、東洋学の安岡正篤と言われている。吉田茂をはじめとする歴代の日本の首相や戦後の財界トップに深い影響を与えた氏は、昭和の陽明学者として名高い。その著書を読めば、山田方谷の理財論が実にしばしば取り上げられている。
 山田方谷の名前に記憶はなくても、越後長岡の破天荒な英雄河井継之助が三度土下座をくりかえして生涯の師と仰いだ人物、と逸話を語ると、案外に思い出す人がいる。
 越後長岡を武装中立国にしようとしてならず、十倍の官軍を震えあがらせて激戦の北越戦争に散った継之助は、33歳のとき、はるばる備中松山に遊(游)学し、旅日記「塵壺」を残した。山田方谷を慕って備中松山を訪れ、継之助が半年以上も内弟子となって、そこに滞在したのは、師の方谷が前人未到の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている幕末の最も著名な陽明学者だったからである。
 江戸幕府の最後の将軍は15代徳川慶喜、と答えられても、では、そのときの主席家老は、と問われて、備中松山藩主・板倉勝静(かつきよ)と解答できる人は、それほど多くないのではなかろうか。板倉勝静は、百姓上がりの儒臣山田方谷に備中松山の藩政をすべてまかせて、14代将軍家茂(いえもち)、15代将軍慶喜に仕えた最後の老中であった。敗者の波乱に満ちた数奇な人生を送った。
江戸幕府は瓦解する。前途には滅亡しかない。山田方谷が歯に衣を着せず、徳川幕府崩壊の予言を公開したのは、安政2年(1855)のことだった。薩摩や長州の若き志士たちが、まだ倒幕を口にする、はるか以前のことである。まさかの、恐れを知らぬこの発言に人々はただ唖然として息をのんだ。
 儒学から学んだ歴史観と方谷の鋭い先見の洞察力から、武家社会のライフサイクルが終わろうとしていることを確信した方谷は、藩主勝静に幕閣の地位を捨てるように進言する。くどいほど何度も進言した。最後には、幕府にも、徳川と共に死なんとする老中板倉勝静にも三行り半をたたきつけて「野」にくだった。
 明治維新を迎えて、新政府の中枢を握った岩倉具視、大久保利通、木戸考允は異例なことに敵陣営の政治顧問だった山田方谷に新政府出仕を次々と呼びかけてきた。江戸時代に思いもよらぬ先駆的資本主義そのものの藩政改革を断行し、備中松山藩をまたたく間に蘇らせた方谷の天才的異能が、維新政府の財政、経済政策に必要だったからである。
 10万両の借財をわずか8年で10万両の蓄財にかえた改革の巨人は老いと病を理由に、ついに首を立てに振らなかった。日が暮れてねぐらに帰る鳥のように、森の中へ消えてゆくことを自ら望んだ人である。残された生涯を卿学(郷土の学問)にかけて、歴史の彼方に洩れていくことを選んだ人である。勝者の歴史は山田方谷を忘れた。
 20世紀は、敬う心を失った「世俗の世代」といわれている。高度に発達した物質文明の中で哲学も宗教も希薄になった物欲過剰の俗物の世代、方谷がその漢詩の中にしばしば登場させる言葉「風塵」を使うなら「風塵の世代」に私たちは生きてきた。
 自由と効率を求め、豊かさを享受する中で失ったものがある。私たちが時代の潮流の中で置き去りにした、人間の極限における尊厳を、退き際の美学を、そしてリストラクチュアリングの本質を、百年以上もの過去を越えて山田方谷は静かに語りかけてくる。峻烈な山田方谷の生き様と精神は、弛緩した現代人の背筋を知らず正して、あらためて、人間を再考させずにはおかないものがある。
 勝者の歴史に忘れられ、備中の郷土をのぞけば、今の世には幻の巨人となってしまった。

   
   

>>>次回へ続く