先哲の故教を温ねて現代に活かす【その3】

 ※本編はリーダー論について2006年に執筆したものです。
 

■第二章 リーダーの適正性と放伐論

 
   

 リーダーとしての責任・地位を全うするには、いつのときも公平無私でなければならない。孟子の放伐論に端を発し、名君といわれる「唐の太宗(たいそう)」の政治生活問答集である貞観政要【※附則6参照】の中からリーダーを水に譬(たと)えてリーダーの役割や使命を説いていく。
 リーダーには小さくは家長から、大きくは日本の国家の長まで一億二千万人が総リーダーといえなくもない。リーダーは、その情報の重要度・緩急(かんきゅう)度の優先順位をつくり、質・価値などによってセレクト・セグメント化し判断して決断しなければならない。
 そこには先を見抜く目(先見)による洞察力がなければ意思決定に「ブレ」が生じる。 リーダーの意志決定(判断)には、わずかの差異・誤差も許されない。置き換えればリスクマネジメントそのものであり、ミスリードは、国家や企業の組織・秩序存続に関わる。そのような厳しい判断・決断が無条件に必要となり、そこにリーダーの適正性が問われることになる。適正性のないリーダーは、その地位を自ら譲らねばならない。

 そこで、リーダーの地位と徳目について考えてみる。
 孟子の放伐(ほうばつ)論には『王が徳を失ったときは、徳のある者にその地位を譲らなければならない(禅譲(ぜんじょう))。徳を失った王があくまでもその地位にしがみつくときは、武力を行使してこれを追うことができる。これを放伐という』とある。
 徳を失った王は、ただのつまらない人間である。したがって、この王を臣下が討ったとしても、それは反逆でもなく非道でもない臣下として当然の行為である。
 周の武王の故事がそれをよく示している。孟子は、周の武王が自分の仕える悪王を武力で滅ぼしたことを放伐と賞賛している。また、孟子の放伐論以外にも貞観政要(じょうがんせいよう)(唐太宗が、侍臣と治国について論議した対話を綴った本)など、先哲の古教を現代のリーダー達が手本にしている。その「貞観政要」に水と船を喩えにした逸話がある。
『水は船をよく浮かべ、またよく覆す』唐の太宗は、水を人民、船を自分に喩えた。
つまり政治が良ければ、人民は自分をよく支えてくれるが政治が悪ければ波を立てて自分を覆す。民に対する政治のあり方、侍臣に対する処遇のあり方・仕方を説いている【※附則6参照】
 「禅と陽明学」を著した安岡正篤(まさひろ)は、水を喩えにして「政治と人間」の関わりあいを「遊(游)学」という言葉を使って分かりやすく説いている。
『遊(游)学という言葉は、東洋的な実にいい言葉である。水が支流を合わせつつ海に向かって流れていく。自由自在に焦らず騒がす、いたるところを潤し、いたるところの流れを総合しつつ悠々と進んでいく。これが游学である。漢民族発祥の地である黄河とその洪水に関連する。それが游学の一つである。この場合のユウの字は、水を対称とするサンズイ(?)でよい。道筋という水の形の流れてゆく経路を表すときはシンニュウ(?)の遊でよい』さらに続く。
『黄河は、日本里数にして4千キロメートル以上の長江で、陝西(せんせい)・山西(さんさい)・河南(かなん)・山東(さんとう)にかけて紆余曲折して流れて、そこかしこのいたる所で氾濫する。黄河の堤防を造ったり、治水工事をするということは大変なことで、一箇所の氾濫を防ぐと思いがけない別のところにその反動がいって水害が起こる。
 治水というのは必ず他の地区の住民との争いに発展する。のみならず、治水のやり方によって、水の抵抗が、どういうカタチになって氾濫するかが分からない。せっかくの治水工事そのものまで、どんなに破壊されるか分からない。
 シナの古代史は黄河の歴史とともに取り組んできた歴史である。その結論として、黄河の水が最も大きな氾濫を起こしたとき、最も水が激したときに、どういうふうに水が流れるかを考えて、水が最大に激したときの流域を押さえて、その通りに水路を造った。そうすると水は、衝突したり、抵抗に合うことがないから、敵がない。無抵抗の状態に置かれる。水は、何らの抵抗を感じず、何ら争う必要なくゆったりと流れた。これを優遊という。あるいは游。
 人間も河に、たとえるとイロイロの経験・体験、苦労して憂えなければならない。
なんの心配もなく平々凡々に暮らしたのでは、優人、いわゆる優れた人にはなれない。大いに憂患を体験して思い悩み憂を積んで思索し、学問し、鍛錬されて初めて余裕が生まれる。すなわちユッタリとした落ち着きができる。そうして人間が優れてくる。
   黄河の水もしばしば人間に苦労させた。黄河そのものもイロイロと疲れ苦しんで「優游」として「自適する」という。自適の「適」は、「かなう」「いつの間に」という文字である。同時に、「ゆく」という字でもある。優游として自ら適く(ゆ)、これが優游(ゆうゆう)自適(じてき)の意味である。この言葉は、このようにしてできたわけで、黄河の長い惨憺たる治水の苦心の結果は、「優游自適」に落ち着いた。』と、説いている。

 歴史上の統治者の中で、水をよく治めた人物に徳川家康と武田晴信(信玄)がいる。
その武田晴信(信玄)にスポットをあてる。武田晴信は、父である信虎を放伐ののち水をよく治めた。治水と治国は、古代(いにしえ)から政治を司る者の大きな役目であり使命である。 父、信虎(のぶとら)を放伐したのち「徳のある君主である」という意思表示を領民・家臣に示した。 国外への侵略に明け暮れる政治ではなく、自領の荒れた土地を潤し、自給力を増加させることに全力を傾ける意思を「領民と家臣」に約束する。今でいうマニフェスト。そのために暴れ川である御勅使川・笛吹川・釜無川の改修工事を命じた。今に残る信玄堤である。
 晴信の反面教師であった信虎の政治手法は、年貢の増徴・信濃方面への侵略強行に領民や家臣の怨嗟(えんさ)が満ち満ちていた。晴信は、このことへの猛反省から川の改修工事を命じた。改修工事は、領民や家臣の怨嗟エネルギーの力を弱めるのに功を奏した。
晴信は、孟子の「放伐論」と『水は船をよく浮かべ、またよく覆す』の貞観政要を実践 したのであろう。政治家とすれば、またリーダーとすれば当然過ぎることである。われわれ凡人は、目先の利欲に走りがちであるが、良きリーダーは自分を棄て「世のために、人のために役立つ」ことを最も大切にし、公平無私を守り通すことに徹している。『小善は大悪に似て、大善は非情に似たり』目先の小さな妥協は大きな悪に繋がる。却下照顧(きゃっかしょうこ)、足元を大切にしなければ大成は無いともいわれる。時として、小善は、大善になり大善は小善になりうる。リーダーはバランス感覚が何よりも重要であり、一方に偏ってはならないということである。
 晴信は時代を見極めながら、父・信虎の行状をよく分析していた。このまま、この国を放置すれば甲斐の国は早晩滅びる。そうであるならば、父であっても非情の手段に訴えねばならない。放伐は「適正性を見極める力」と「先を見抜く先見性(洞察力も含めて)」の実践力がなければできないことである。その後、晴信は信玄と名を改め、放伐を大義として諏訪や信濃(村上軍勢)を一挙に攻めようとするが、コトは簡単に運ぶことはなかった。
 川中島の合戦(上杉と武田の戦い)では、武田勢は多くの犠牲者を出し、父を放伐したことと同じことを自分もしているのではないかと自暴自棄に陥る。その心の傷を癒す間もなく京への遠征途中で、信玄は持病が悪化し急逝したとされている(実際上の死因は不明)【*注1】。信玄亡き(1578年)後、三年間は死を伏せることを遺言とする。しかし、この遺言は守られることなく甲斐の国は滅びる道を辿る【*注2】。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【*注1】
  貞観政要を真似たと思われる「甲陽(こうよう)軍艦(ぐんかん)」を高坂弾正が天正6年=1578年に著した。甲陽軍艦は、武田氏興亡の歴史書で、軍学理論=孫子の兵法に学ぶところが多く、故実・訴訟にいたるまで記録書として評価を得ている。近年では歴史的時系列が合わないところが発見されており信憑性を疑うところもあるとされている。個人的には貞観政要を真似たものと思っている。

【*注2】
放伐と下克上は、よく似ているが似て非なるものである。下克上は、私利私欲 のためだけのものであり利己満足以外のナニモノでもない。

   
 

【※附則6】
■貞観政要・・・守屋 洋訳から

 
   

 守成の時代の書 ―――― 「貞観政要」の今日的意義
1)帝王学の教科書
 「貞観政要」は、名君の誉れ高い「唐の太宗」(李世民(せいみん) 在位 626〜649年)と それを補佐した名君たちとの政治問答集である。太宗の没後4〜50年たった頃、呉競 という中国の史家によって編纂された。以来、本家の中国はむろんのこと、この日本に おいても、帝王学の教科書として長く愛読され続けてきた。
 日本の場合について、2〜3の例を挙げてみよう。
先ず、鎌倉時代、北条氏による執権政治の基礎を固め、「尼将軍」として権力をふるった 北条政子は、わざわざ学者に命じて和訳させるほどの惚れ込みようで、以後、北条氏は 代々、この書を治世の参考書として重んじた。
 また、徳川幕府三百年の基礎を固めた徳川家康も、この書を愛好し、藤原惺窩(せいか)を召し て講義させたばかりでなく、足利学校に出版を命じて、その普及につとめた。そのせい か、紀州家をはじめとして、江戸時代の藩主で、この書に親しんだ者が少なくない。
 さらに、歴代の天皇も、帝王学の教科書としてこの書のご進講を受け、その数は、記 録に見えるだけでも数十人にのぼっている。
 近くは、明治天皇である。侍講の元田永孚(えいふ)(教育勅語の起草者でもある)のご進講を 受け、この書に深い関心を寄せられたという。「貞観政要」がこのような読まれ方をして きたについては、それなりの理由があったといわなければならない。
 では、その理由とはナンだろうか。

2)創業と守成の違い
 唐の太宗とは少し違った意味で、やはり名君の一人に数えられる漢の高祖(劉邦・在 位前206〜前195)について、こんな話しがある。
 高祖が宿敵・項羽を倒して皇帝の位についてからのこと、太中大夫(だいちゅうたいふ)(宮中顧問官)の陸(りく) 賈(か)という功臣から、「詩」「書」のご進講を受けることになった。高祖は、もとはといえ ば、名もない百姓の出である。戦のかけ引きや部下の人心収攬には人並みすぐれた能力 を発揮したが、学問教養となると、まるで問題にならなかった。
 しかし、皇帝ともなれば、それではすまされない。
 そこで、当時、もっとも基本的な教養の書ともいうべき、「詩」「書」のご進講となっ たわけだが、根が武弁ものの高祖は、このご進講にうんざりし、あるとき、ついにたま りかねてご進講役の陸(りく)賈(か)を怒鳴りつけた。
『わしは、馬上で天下を取ったのだ。「詩」、「書」など問題ではないわい』
すると陸(りく)賈(か)は、即座に、こういって高祖をたしなめた。
『これは、聞き捨てならぬお言葉。陛下はなるほど馬上で天下をお取りになりましたが、 だからといって、馬上で天下を治められましょうか。文と武を併用することこそが、天 下を保持していく秘訣ですぞ』
 高祖は、陸(りく)賈(か)の言葉に一時はムッとしたが、さすがに名君だけあって、話しのスジの わかる男である。やがて、文治にも力を注ぎ、漢王朝200年の基礎を固めたのだった。
 このエピソードは、天下を保持していく、つまりトップの座を固めるためには、それ を手に入れる(創業)のための苦心とは、また違った苦心経営を必要とする事実を明ら かにしているといえる。それは、一言でいえば、守成(守り)の心得である。それを欠 けば、せっかく手に入れたトップの座を守りきることができない。そのよい例が、秦の 始皇帝であり、隋の煬帝(ようだい)だ。
 わが国の例でいえば、殆んど一代限りで終わった豊臣秀吉と、徳川300年の基礎を 築いた家康の違いであろう。

3)守成(守り)の心得
「貞観政要」40篇を貫いている主題というのは、実はこの守成の心得にほかならない。 唐の太宗は、こと軍事にかけても非凡な才能の持ち主で、若き日、父・高祖(李淵)を 助けて東奔西走し、唐王朝の創業を成し遂げた最高の功労者だった。しかし、626年、 高祖の譲りを受けて第二代皇帝の座についてからは、彼の関心はもっぱら守成に向かい、 唐の基礎がためにつとめている。その守成の苦心は、この「貞観政要」において、あま さず語りつくされているといってよい。
 のちに、徳川家康がこの書を愛読し、治世の参考にしたのも、むべなるかな。
「貞観政要」のなかに、『創業か守成』という有名な問答がある。
あるとき、太宗が側近の者を集めて『草創(創業)と守成といずれか難き』と下問し たところ、創業以来の功臣で、当時、宰相のポストにあった房玄齢(ぼうげんれい)が『創業こそ困難で あります』と答え、これに対し、側近ナンバーワンの魏徴(ぎちょう)が『いや、いや、守成こそ困 難でありますぞ』と反論した。両者の言い分を黙って聞いていた太宗は、『両名の申すこ と、それぞれにもっともである。しかしながら、創業の困難はもはや過去のものとなっ た。今後は、ソチたちとともに、心して守成の困難を乗り越えていきたい』と、守成の 時期に臨む決意を語っている。
 その守成の時代を、いかに耐え、いかに守っていったかが、この「貞観政要」の中心 的なテーマである。古来から、帝王学のほとんど唯一のテキストとして珍重されてきた 秘密も、ここに秘められているといえよう。

4)今日的意義
 守成の時代といえば、今日の日本の現状もそれに近い。
高度経済成長を謳歌してきた昭和40年代は、企業経営にしても、政治の運営にしても、 押せ押せムードの一本槍で結構やっていくことができた。日本人は、どちらかといえば、 攻めには強いが、守りには弱いとされている。今までは、その長所を十分に発揮して、 快調なペースで突っ走ってくることができたわけだ。
 しかし、高度経済成長のバブル崩壊を経験し、失われた十年といわれるデフレ経済を 経験し、低成長の減速時代の真っただ中にいる現状では、成長期の押せ押せでは通用し なくなっているのは誰しもが感じている。政治も、保革伯仲(衆議院は与党が強く、参 議院は野党が強い)で、きわめて流動的な局面を迎えている。これからの時代を生きて いくためには、組織にしても、個人にしても、攻めだけではなく、守りに強くなければ ならない。攻めだけの短兵急な生き方は通用しない。
 そういう意味で、守成の困難に耐え抜いた名君太宗の足跡は、今日、同じように守成 の時代を生きるわれわれにとって、汲めども尽きぬ教訓となるであろう。特に政財界を 問わず、現にトップにある人々、さらには、これからのトップの座を目指す管理職層に とって、この貞観政要は必読文献の一つであるといっても過言ではない。

   
   

>>>次回へ続く