先哲の故教を温ねて現代に活かす【その4】

 ※本編はリーダー論について2006年に執筆したものです。
 

■第三章 リーダーの人間力について

 
   

 リーダーと呼ばれる人は、自分の命を投げ出す覚悟ができていなければならない。
人間観を修養し人格を構築しなければならない。また自然界の生命衰退の法則を知っていなければならない。非情なまでの宇宙=自然=道を理解していなければ、リーダーになる資格はない。また、人の世の盛衰を論語がよく顕している。これらを手本にして、いかに生き、いかにリーダーシップをとるかを説く。


@道人
 リーダーを直訳すれば導く人のことをいう。導くという字は「道と寸」からできている。
寸は、寸法のことをいい「長さ・距離」のことである。そのあいだを手を携えて「善き道」にみちびく、だから「みちびく」と読む。『善き道』とは、天の道である。天の道とは、自然=宇宙であり、造化・変化無限の創造である。ならば、天は、すなわち道であるといえる。無限の道である。道とは言い換えれば無限の創造であり、変化、造化である。生成化育と言ってもよい。それを徳ともいう。
   本物の人間は道人(道の人=真人)でなければならない。道人は、論語の「道・器」(老荘思想も同様)にはじまっている。道(宇宙=天=自然)という限りない創造変化の働きによって、すべての物が創られる。
 その作られる物のことを器としている。道が創るところの一つの器、器に該当する人間のことを「器人」という。
 人間性が「少ない」もしくは「ない」ということになれば、自主性・主体性が「少ない」「ない」というわけだから「人」が「物」になる。人は、道につくべきもので「道人」であるべきだ。ところが、その人間が物を作って、自分が徐々にその「作った物」と同じ「物」になってしまう。「道人」がだんだん「器人」になって、そのうちに「器物」になってしまう。そこで、人間とは「何ぞや」という問題を考えるようになる。そうすると、道に近い人ほど、道を会得した者ほど、本当の真の人間であることが分かってくる。それを道の人、「真人(しんじん)」という。
 たとえば本当の人間は、人間社会にあって、それぞれに、何らかの役割を演じなければならないから一つの器である。単なる器ではなく「道器」であり「器人」であり、同時に「道人」である。つまり、変化・創造・造化に順応できなければならない。変化・創造・造化に順応できる人、それが道の人(道人=真人)である。
 簡単に言ってしまえば、本当の人間は「つぶし」が効かなければならない。「つぶし」が効くというのは「変化・創造・造化に順応できる」ということである。だから、本当の人間ほど「つぶし」が効くというわけである。「つぶし」が効かない人間というのは「小器」になってしまった人間のことである。人間が「器人=物」になっては「道」から外れることになる。
 それほど「つぶし」が「効く、効かぬ」というのは、東洋の人間観(思想)としては重大な問題である。人間が機械的になるということは、すなわち「器物」になるということである。「器物」になればなるほど「つぶし」が効かない。
 応用が効かないということであり、これは、人間が、天から離れてしまって堕落してしまっている。生を失ってきているということに他ならない。

 生をやかましくいうのは易学(数理統計)である。易は「生」の哲学である。
こういうところから考えて、男と女と一体どちらが道に近いか。また、無限の創造をするのは男か、女かを考えると、これは女の方が「道」に近いといえる。
 それは、天は無限の創造(・)変化(・)であり、造化であるということからハッキリしている。 男は、いかに英遇であっても、子を産むということはできない。人が人を産むということは大変なことだが、これは女でないとできない。つまり、それだけ女は男より道に近い。
 だから女性は、「つぶし」が効く。「女性に廃り者はいない」というのはそこのところだ。何か役に立つ。男というのは「つぶし」が効かない。だから、お婆さんというのは困らない。家庭にあってお婆さんというのは便利なものである。便利と言っては、失礼なことかもしれないが、本当に便利なもので、孫の世話でも何でもできる。困らない。
 父親というのは、実に始末に悪いもので、文句ばかり言って役に立たない。こういうところに道の面白いところがある。男の中でも、本当に道を学んだ人は、何にでも役に立つ。会社をクビになったら使うところがないなどというのは「器物」である。つまり「小器」である。これが東洋の人間観である。
 器ということで考えてみると、「あの人は器が大きい人だ」などというが、この語源は論語の「道器」論に始まっている。生き方が、道の人であり自然の理である造化・変化・進化に順応して、世の中の役に立つ生き方でないと「あの人は器が大きい人だ」とはならない。また、最近では、熟年離婚などということが実際においてあり、大のオトナが粗大ゴミ化しているのは何を指しているのだろうか。人間が生を失って器物化しているのではないかと憂う。

   
   
   

A公平無私・創業垂統
  そこで、人間観から人格論に入って、この人の世を治めるのに、人間が増えて大衆となり、それが社会を作るにしたがって政治が起こってくる。
 これに関連して人間観に基づいて人格を考える。一歩進んで、一番立派な人格というものはどういう人格だろうか。一番立派な人格は『その徳、天の如し』と、東洋の書物にはある。『その徳、天の如し』とは公平無私のことである。「私」が無い。「私」というのは人間が小さな器になると前項で説いた。
 こういうところから多くの人々を治めるのにリーダーが必要となる。当然リーダーには人格論が必要となり、人間観に基づいて人格を考えなければならない。一番立派な人格とは、どういう人格だろうか。これから考えると「徳」というところに突き当たる。「徳」は「天」のようである。これは、抽象的な漠然としたものでもないし概論でもない。
 このような人間観を考察しながら呂新吾(1536〜1618年 明後期の官僚)は、人格者としての位置づけを著書「呻吟語」で次のように言い切っている。
『人間として、どこまでも深く、しっとりと落ち着いている。これを「深沈」と位置づけている。限りない内容をもっていることを「厚重」という。「深沈厚重(しんちんこうじゅう)」。
 どこまでも、測るべからざる内容をもっていて、しかも私が無い。つまり公平である。他に対していうならば「公平無私(こうへいむし)」、自分に対して言うならば「深沈厚重」、これを人格の第一等の資質という。
 頭がいい、才能がある。技能が発達しているようなこと、つまり資格を持っているか、どのような試験に及第しているかは大切ではあるが、それはあくまで第二義的なものであって本質ではない。人間観の価値感からすると、このようなことは「後回しになって枝葉末節となってしまう」と、呂新吾は言っている。
 呂新吾は、その次に「磊落豪雄(らいらくごうゆう)」と言っている。小さな型にはまらない。磊落というのは、大きな石がゴロゴロしているという状態。大まかで気迫が盛んでスケールが大きい(蛮勇ではない)。道的ではなく、どちらかと言えば器用に立ち回る。大まかで小さな型にはまらない。こだわりがなく線が太い。これを人格の第二等の資質としている。
 第三番の資質を「才知弁明(さいちべんめい)」といい、頭が良くて才があり、弁舌が立つことをいう。 このあとは、だんだんと平凡になる。』
 人物とは?ということになると、こういう価値判断になってくる。江戸から明治にかけての人物評価をすると、おおよそこの線に沿っているようだ。ところが、明治の後半になってくると、人間の本質を問題にしないで、役に立つ器(これを器用という)人間の道徳的内容を問題にしないで「器用」を問題にするようになる。知識のスペシャリスト・エキスパートを専ら問題にする。道徳は、人間として必要のないことで「器用」一点張りになってしまった。それが現代にまで引き継がれている。
 たとえば、知識・実務において手っ取り早く役に立つ人間の養成をするようになった。道人がいなくなって「器人」から「器物」になる。極端なことをいえば、知識・実務のスペシャリスト・エキススパートの資格である第二義的な価値と結婚するのか、それとも『人物だ、できている。とか、面白い人物だ』というような道の本質である「深沈厚重」さを備えた人格者と結婚するのか。いわゆる資格か人間か、最近の世の中はわからなくなってきている。
 こういうことを基礎にして、わが国の精神的バックボーンを考察するとき儒学の影響を無視することはできない。さらに仏教、道教、キリスト教、日本古来の古神道が微妙に融合し、絡みあって日本人の精神構造を作りあげてきたといえる。
 ここで、日本人の精神構造に影響の強い「儒学」の系統をまとめておきたい。
孔子の学統は、曾子(そうし)に伝わり、曾子の学統は孔子の孫である子思に伝わり、子思の門人から教えを受けて孟子が確立した。孔子の教えは「論語」に、曾子の教えは「大学」に、子思の思想は「中庸」にのこされ、孟子は「孟子」を残した。
 四書と呼ばれる「論語」「大学」「中庸(ちゅうよう)」「孟子」は、儒学の中核をなす経典である。五経とは、四書を補填する儒学の経書で「易経(えききょう)」「詩経(しきょう)」「書経(しょきょう)」「礼記(らいき)」「春秋(しゅんじゅう)」を指す。
 儒学の芯(根本)を形成した一人である孟子は、気魄の盛んな人であったとされる。その書「孟子」は、浩然の気や偉丈夫、出処進退、廉恥(廉(れん)=欲を持たないことをいう)などを論じ、その言葉には、人を動かすものが多く語られている。(孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教え 孟母(もうぼ)断機(だんき)の教え 孟子に対する孟子の母親の教育が基礎になっていると考えられる)たとえば、その一つに『志は気の帥なり』(公孫丑(こうそんちゅう)=孟子の弟子)という言葉がある。
 志とは、士と心でできており、士とは、人のお手本、人の道を説く人のことをいう、その心を持つことを「こころざし」と読む。今の時代でいえば、目標・夢・ビジョンをたてて、それに果敢に挑戦して成し遂げることである。
 帥とは、訓読みをすれば「帥(ひき)いる」と読む。人々を帥いる人、つまり軍隊では、隊長とか将軍、元帥を指す。『志は気の帥なり』の意味は、「目標、夢、ビジョンを持つこと、と言い換えることのできる志こそは、気力、ヤル気、気骨など、一切の気の元である」ということになる。
 志ほど大切なものはない。どういう人間になりたいのか、どういう国家を形成したいのか、どういう会社をつくりたいのか、志がすべてを決定する。ヤル気や気力、気骨、元気の気の力は志から生まれてくる。いわゆる今の時代でいうところの「動機=モチベーション」の基礎になるものである。
 志のない「どういう人間になりたいのか」という、人間の最も基本的なところを曖昧にしたまま生きていたのでは、目前の欲望に負けて「したい放題」をするだけの人間になりさがる。リーダーが持つ役割りや使命、公け、責任の分別が分からないまま、また、志のなす言葉の意味も理解しないままで、徳を備えた道を熟知した真のリーダー(道人=真人)になりえる道理がない。

   
     
   

 

   
   

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