知の領域を学ぶ

 

時代は技術革新を求めている。橋本流“イノベーション基礎学”のススメ第1回

 
 

■楽は苦の種、苦は楽の種

 
   

 アメリカに端を発した金融システムの崩壊が2008年末に起きたことで、一挙に世界同時不況に陥った。その昔から、行き過ぎたアメリカの絶対的資本主義の金融市場に警鐘を鳴らす専門家もいたが、経済の循環が順調なときは誰も耳を傾けることはなかった。
  もちろん、いつの時代も順風満帆な有頂天の状態が長く続くものでないことを、誰もが知っている。
  「栄枯盛衰」世の倣いを知識レベルで分かっていても、人間の欲・得にブレーキをかけたり、我がままなココロをセーブしてコントロールすることは、知恵や英知で固められた実学の勇気がなければできないことである。「過ぎたるは及ばざるが如し」の譬えのとおり、何ごとによらず腹八分目がちょうど良い。
  つまり、静かで目に捉えられない社会動向に対して、人の心理が「どう、働くか」という視点から考えなければならない。目に見えることもなく、耳に聞こえることもない、五官に感じられない人々のココロの底流にある想念や心理が、社会の潮流・トレンドを作っていく。
  そういう人々の想いを自然界の水の性質に譬えてみる。
  水は、高いところから低いところへ流れ、水は、石や流木など、周囲を巻き込む。また、水は、方円の器に従うと言い、いかなるカタチをしていようが隅々にまで浸透していく。
  このように、水は、モノゴトを動かす大きな力を持っているが、反面に、水は止まると腐るというデメリットもある。「水五訓」という中国の故事は、人の生き方を水に譬えて説いている。
  また、山に登らなければ天の高さに気づくこともない。深海に潜らなければ大地の厚さを知ることもない。考えてみると日常生活というのは、自然の営みの中で暮らしていると考えるのが普通だ。
  しかし、ときとして、「自然を動かしているのは自分だ」という錯覚に陥るのも人間だ。冷静になると、そのような大それたことを誰も考えることはないけれど、冷静沈着になって考えられないのが人間でもある。
  驕り昂りである増上慢というココロが古今東西の人間をそうさせてきた。エゴで塊った人たちは、人を人と思わず人間社会を堕落の道に誘い込み秩序を乱し、栄耀栄華を貪り続ける。度が過ぎてくると、人間の五官には感じられない何かが自然浄化の準備を始める。
  利己主義の潮流が社会に蔓延し、一定のキャパシティをオーバーすると、陰に、陽にかかわらず浄化のカタチを変えた崩壊が始まる。自然界の浄化作用は、生きている我々にとって、途方もないほどの苦しみを時として与える。つまり、未だ得ざるを得たりと思うココロの蔓延が、社会が崩壊していく道をたどらせるようになる。人間は、自然界の一部であり、人間が自然界を創造したわけではない。人間に植物の種一つが作れないことは誰もが知っている。
  日々の仕事において私欲の貪りが極端なほどに顕在・露骨化してくると、「自分にできないことは何もない」という利己主義の思考回路がつくられるようになる。
  つまり、蒔いた種の実しかできないということである。ここを心得ていないと、イノベーションを起こすことは不可能だということを自覚しなければならない。これが、「楽は苦の種、苦は楽の種」という、いたって単純な自然界の摂理である。

   
 

■日本の八百万の神思想がイノベーションを起こす

 
   

 さらに視点を変えて考察すると、欧米社会の君と民は、君が民を支配するという関係にあり、日本のような君民一体という考え方がない。欧米人の思想には、自然をも征服しようとするDNAの奥深くに刻み込まれた支配欲が昇華されている。
  しかし、一方では、DNAの奥深くに刻み込まれた支配欲思想の行き過ぎや過ちを、宗教や信仰によって自己制御・コントロールしているともいえる。欧米社会の宗教は、一神教であり、絶対的な神を崇拝し、日本人のように八百万の神の信仰があるわけではない。また、死んでしまうと神・仏になるという、自然に融合し、自然と一体化した日本人の宗教観や思想は、欧米社会には存在しない。
 欧米の絶対的な支配欲思想が絶対的資本市場を作り上げて、世界を席捲し支配しようとしたが、現在の世界経済の状況はその支配欲思想が崩れかかっている状態であって、IT金融技術が崩壊したわけではない。
 私は、IT金融技術は新秩序・新制度に合わせて新しいニーズが創出され、さらにパワーアップが図られて、より便利で機能的な役割を果すようになると確信している。
 つまり、支配欲による権益の既得化は徐々に姿を消し、すべてが情報開示されて協調社会ができるようになる。その一つの顕れがオバマ大統領の出現であるともいえる。
 アメリカ国民が、オバマ氏を大統領に選んだ意味を読み解くと、次代は、日本のような君民一体の協調思想が世界を動かすようになると予測できる。
 さて、私の独断と余談が長すぎた。
 人間の営みと自然界の動きの話しに戻そう。
 ここでも、水をお金に置き換えると理解しやすい。お金は、人間の美しさも汚さをも巻き込んで浄化させながら経済として成立している。お金の流れが止まると、金融システムの崩壊が起きて経済が破綻する。お金は、たえず浄化させながら世の中に流していかなければならない。水と同様である。
 また、山に登れば天の高さに気づくし、谷の深さが分かって慎重になる。そして、山に登れば必ず下りがある。どこが山の頂上かということが分かれば、下りのときの急勾配にも手を打っているはずである。それが、自然への畏怖、敬いというもので自分への戒めに繋がっている。
 水を止めることなく、水を流しながら利用し活用することで生命が育まれる。山と対峙するのではない、山と仲良くなって、山と一体になることが山を楽しむことである。
 人生も、これと同じことだ。人生の中に仕事があるのか、仕事の中に人生があるのか、の議論では解決できることは何一つとしてない。
 人生と仕事は別次元のものではなく、同一次元でなければならない。つまり、いずれかが絶対的な支配をするのではなく、人々と協調しながら生きていくところに「真の知恵」が身につくようになる。真の知恵は、イノベーションを生む力の源泉になる。

   
 

■バカの道に徹しなければイノベーショは起こせない

 
   

 さて、人の世の動きは、自然界の原理原則、摂理にしたがって動いているということが理解できてくると、自分の行動が“考動”になる。熟慮断行ということであり、その熟慮断行が、先見性を身につけることになる。そのような熟慮断行がイノベーションに繋がっていくというのが自然界の原理原則である。
 ある日突然に天から降って湧いてくるものでもなければ、棚からボタ餅でもない。毎日の連続性の中から滲み出てくるものであり、四六時中、考えに考えて、さらに考え抜いて、夢にまで見て、ホトホト諦めようかと思い悩んだ挙げ句の中から出てくるものだ。
 そういう地道で、一生、良い目が見られないかもしれないという「バカの道」に徹しないかぎり、本物のイノベーションになることはない。
 「一発、ヤマを当ててやろう」などという邪悪なココロでイノベーションを起こそうとしても、それは、できない相談だと言っておこう。
 死ぬかもしれない、不幸のどん底に陥るかもしれない。そのような死にもの狂いの覚悟が必要だと、イノベーションを起こした人は異口同音に言う。
 最初は、異端児扱いかバカ扱いされるのが関の山だ。艱難辛苦を乗り越えて、また辛酸を舐めるのが嫌なら、イノベーションを起こすというようなことは考えない方がよい。
 苦労してでも、やり遂げるという堅固な意志があるのなら辛抱して続けることだ。成功するまで続けることだ。だから、失敗をすることはない。
 楽は苦の種、苦は楽の種という考え方をココロに刻んで、イノベーションを起こしてほしいものだ。