知の領域を学ぶ

 

時代は技術革新を求めている。橋本流“イノベーション基礎学”のススメ第10回

知的資産経営がイノベーションを起こす <其の1>

 
 

 
   

 生産性と品質を高めるうえでITが果たせる機能と限界について、三回に分けて考えてきた。それを踏まえ、「モノからコトへ」という経済の潮流において「知的資産経営」がいかにイノベーションを推し進めるかを述べてみたい。

   
 

■カタチのない「コト」に取り組まなければならない

 
   

 アメリカの象徴と言えるGMが、なぜ、経営破綻に追い込まれたのか。これまでの章で、経営は研究開発分野が重要な根幹をなすことを説いてきた。
 ところが、行政刷新会議が、無駄遣いをなくすという大義の元に研究開発費まで削減するという・・・。確かに無駄遣いは締め出さなければならないが、すべてを無駄として、「ためのため」の削減をやるとGMのようになってしまわないか、新しい技術やサービス、さらには人材の育成も憚られるのではないか・・・と私は危惧している。
 日本のモノづくり、つまり「技術立国」たるゆえんである得意分野が崩壊すれば、日本経済は大きな痛手を被る。メイド イン ジャパンは商品・技術品質において、今なお世界ブランドの頂点に立っているのであり、この基盤が揺らぐと国家存亡の危機に陥ると言ってよい。

 ところで日本国内を見回してみると、無いモノはないというくらいに商品が溢れかえっている。豊穣であり、豊満かつ豊潤である。しかしながら、心の豊かさという側面においては貧弱であり、脆弱であり、薄氷を踏む思いで歩いている感がしないでもない。心の豊かさを計る尺度もなければ定義もないことが、よりいっそう不安を掻き立てているのは言うまでもないだろう。
 戦後60年、我々はモノという物質文明を追いかけて、一目散に、脇目も振らず、走りに走りぬいて来た。そろそろ立ち止まって、日本の未来の「あるべき姿」をジックリと見直すところに達している。
 たとえば、文明を物質的な繁栄と見ることができ、文化は心=精神的な進化と捉えることができる。そのような意味で、心のありようが幸せ感を生み、その幸せ感は、美術や音楽という芸術に表現されて発展する。
 文化は、時間軸を縦軸、空間を横軸として、互いに磨きあいながら地域に根ざしていく。そして地域の文化は、より以上の時間の経過によって、空間を大きく超えて地球規模的にグローバル化していく。
 こう考えていくと、そろそろ、マスマーケットによるマスプロダクション、すなわち大量生産から大量消費に流れる経済を卒業して、地球環境保全と相まった「次の・新しい経済」が始まっても不思議ではない。
 時代は「上質なものを・大切に・長く愛用する」方向へと移り変っていく。その際は、本当に個人の嗜好に沿うものであるかどうかがこれまで以上に大切な要素になるだろう。それが新文化価値の創出につながると予測することができる。今はマスからパーソナルへの曲がり角であるかもしれない。
 このことを前提に社会の動きを考察していくと、「モノからコト」に重点が移されていくのは決定的である。つまり、次の時代の経済を支えるには、その中心において、サービスというカタチのない「コト」に取り組まなければ、「日本の未来はない」と言ってよい。
 そのような意味で、「モノからコト」という流れは別々に考えるのではなく、「モノとコト」のコンバージェンス(融合)として考えることが必要である。モノを販売するうえにおいても、カタチのないサービスである「コト」が必要不可欠になる。
 では、「コト」のサービスとは・・・・具体的に何を指して言うのか?サービスの本質を見極めてサービスを定義づけ、サービスの「コト」を考察・検証できるようにするためには、サービス産業がもっと法的に整備され、国のサービス産業指針が明確にされなければならない。したがって、経済産業省でサービス産業の強化施策は行なわれているものの、実際に業を営むにあたり生活関連サービス業のほかサービス産業の多くは厚生労働省や国交省、文科省など、経済産業省以外の管轄(監督・管轄)下にある。このために、サービス産業の経済的効果や実態を調査し、考察・検証する有効な手段を見つけることができない。
 しかし、この課題をクリアするために法整備ができれば、サービスの付加価値を数値表現できる可能性が生まれる。そうすれば、暗黙知を可視化(見える化)して形式知に変えて、定量・定性表現が可能になる。
 カタチのないサービス商品であっても、科学的・工学的に捉えられなければ産業になりえない。この点を見直さない限り、サービス産業の本質的な課題解決は見えてこない。

   
 

■ノウハウの蓄積が未来を創る

 
   

 「企業とは?」という課題に対して、ひと言で定義づけるのは難しい。しかしながらハッキリしているのは、企業には、「利益を創出し、ステークホルダーの人々に還元し、納税する義務と責務がある」ということである。
 この義務と責務を果たすことで経済が活発化し、雇用が創出される。それが真の意味での企業の社会貢献に繋がっていく。
 また企業には、成長しながら恒久的に存続しなければならないという命題がある。そのための手段・方法を、いかに練成し、実践するかが企業にとっての優先課題であり、目的でもある。つまり、企業価値を創造するための具体的かつ実現性のある手法が求められているのである。
 企業価値を高次元で維持・継続させるためには、差別化された商品・サービスを間断なく市場に投入しなければならないことは言うまでもない。
 絶え間ない競争にさらされる市場では、商品・サービスの優位形成ができなければ、企業が消滅するのは明らかである。優位性の競争は、商品の機能や利便性、性能競争を経て、最後には価格競争という道に踏み込まざるを得なくなる。市場競争の性質を表す「弱肉強食」は、自然界の法則であり原理原則だと言える。

 弱肉強食の世界では、お互いが血みどろの戦いを繰り広げるようになる。市場において、血みどろの戦いを「レッドオーシャン」と名づけている。その対極にあるのが、未開拓の市場において優位形成をしていく「ブルーオーシャン」である。
 ブルーオーシャン戦略は、フランスとシンガポールに展開するINSEADビジネススクールのW・チャン・キム教授とレネ・モボルニュ教授の二人が説いた戦略であるが、本章「知的資産経営がイノベーションを起こす」では、彼らのブルーオーシャン戦略を踏まえたうえで、私流の「イノベーション戦略」を提唱しよう。
 まず、両者の大きな違いについて。イノベーション戦略(知的資産経営戦略と言いかえても良い)に比べ、ブルーオーシャン戦略における商品やサービスは、時間経過とともに必ずコモディティ化し、レッドオーシャン的になっていくというマイナス要因を持っている。いきおい、企業は近視眼的になり、一発必中のヒット商品を単発で狙うことに明け暮れるようになる。つまり、成果を上げるまでに時間が必要な地道な基礎研究は、ブルーオーシャン戦略では見過ごされることになる。
 たとえるなら、ブルーオーシャン戦略では、体幹から鍛え上げた本当に強いプロボクサーのように次から次にジャブやカウンターパンチを繰り出すことができない。足腰が脆弱なゆえにフットワークも悪く、瞬発力や持続(継続)力が欠如している。つまり、日頃の練習の不足である。「鍛錬する」という基本的行動指針を忘れ、プロセストレーニングを欠如させてしまっているのである。
 本来は日ごろの実践的鍛錬が必要なのであり、「まぐれ」でヒット商品が生まれても、それを市場でジックリと醸成させて息の長いロングセラー商品・サービスに育てることはできない。これは、ヒット商品やサービスを生む仕組みが構築されていないということに他ならない。
 ところが、イノベーション戦略は、経営のプロセスを仕組みに替えてプロセスマネジメントを構築していくので、コモディティになりにくいという側面がある。
 なぜなら人の社会すなわち文化・芸術、伝統・スポーツの自然科学を中心にした精神性の高い考え方からの発想を基礎にした商品やサービスを研究・開発しているからである。
 つまり、私の提唱するイノベーション戦略は知的資産経営に通じ、「人間」という捉えどころのない精神的な存在とそのココロをカタチにすることを重心にした経営の仕方である。これは「ヒューマン プロセス マネジメント」と言い換えてもよい。人の世の中である以上、人が中心でなければならないのは自然の摂理である。
    世界的に起きているトヨタのリコール問題も人の問題に帰結する。人の傲慢さである増上慢、すなわち驕り昂ぶりは、必ず企業を蝕んでいく。これは皆が気付かない潜在的なところで発症し、一度やられてしまっては「トヨタ・カイゼン」と言えども万能であるはずがなく、崩れる。

 ヒューマン プロセス マネジメントは、商品やサービスそのものよりも、人材を育てる仕組みづくりに重点を置き、人が持つノウハウや業務のノウハウを仕組み化し、蓄積していくことを第一義に人材を育てる方法論である。
 企業存続のコア・ノウハウとして作用するのが人のココロであることは言うまでもない。人財創出にはジックリと時間をかけ、何よりも彼らのココロを育成しなければならない。そして、それが企業文化になり、本質的なイノベーション戦略(知的資産経営)にまで練り上げられて初めて、企業は危機的状況から脱出できるのである。これからの時代の経済を担う、サービスという「コト」の、これが本体である。