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知の領域を学ぶ |
時代は技術革新を求めている。橋本流“イノベーション基礎学”のススメ第12回 人材から人財に人を磨き上げる <前編> |
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人の道が一流企業を創造する |
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前章の知的資産経営でふれたように、人が経営の根幹をなすのは古今東西において同じだ。なぜならモノの世の中でもなければ、金の世の中でもなく、人の世の中である。 人の社会、世の中において、人が精神的(意識的)に成長していくプロセスを考察し検証しなければ、知的経営体、すなわち一流企業に至ることはない。 知的経営は人の道を実践することで完成し、企業の責務は人材を人財にすることで果たされる。人材を人財に変えるということは、企業が永久的に繁栄する近道であり、避けて通ってはならない。また、それが一流の知的企業への道でもある。 人の道は企業経営において何よりも優先されるべきで、組織運営において必要なテクニックやスキル、マネジメントは、人の道=考え方の上に成りたっていることを認識しなければならない。つまり、テクニックなどの枝葉末節的なことを目的化していては、一流の知的企業になりえないということであり、まずは人間を磨くことから始めなければならない。 最終の第5章では、人を育成するということに焦点をしぼって話を進めていきたい。 |
■すべてを慈悲でゆるす心「恕」 − 人の一生は自省の繰り返し |
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人は生まれながらにして慈しみの心を持ち、その反対に悲しみの心も持っている。仏教の教えである慈悲がそれだ。絶対的なものはなく、すべてが相対していると説く。人と人が関わりあうことで相対性が生まれる。そこには、人間形成の基になるコミュニケーションがある。 またコミュニケーションは、その中で周囲の人たちから自分を発見できる。そういう発見は、人としての資質である素直さや謙虚さをつくってくれる。 素直さや謙虚さというのは、具体性を持たせて言うならば「頭の中を空っぽにする」ということだ。空っぽにすることができれば、自分自身を見つめなおして反省する心が芽生える。つまりは人への思いやり、労り、優しさができるということである。 素直さと謙虚さが根底になって、「問題が起きた原因は、自分側にある」という考え方ができるようになる。相手は悪くない、事が成就しないのは、自分の考え方や行いに問題や課題があり、まちがいが起こっているという反省だ。 この反省は、素直さと謙虚さに裏づけされている。そして、反省は必ず喜びへと変化し、生きる喜びが、命に感謝することに繋がっていく。 すべての事象を慈悲で覆い尽くそうという「恕」の「ゆるす」心がなければならない。人の一生は自省の繰り返しと言ってよい。 自省の心「恕」というのは、頭の中を空っぽにするということに置きかえてもよい。しかしながら、空っぽになったつもりが空ではなく、頭の器の底には澱のような滓が溜まっているときが常だ。 その滓は、子供のころから、知らないあいだに「躾け」られてきた親の教えと言ってよい。ほとんどの場合、親の考え方、育て方で子供の成長が決まると言ってもよい。 それが、潜在意識下にヘドロ状態になって溜まっている。潜在したヘドロのような心は、子供のころから身体で覚えてきたことなので、なかなか抜けない。刷り込み作用で一杯になったヘドロの腐敗した心は、潜在意識下でヌクヌクと育成され成長している。 自分では、空っぽになって、素直に謙虚に、自省を繰り返して生きているつもりが、実は、ヘドロが腐敗した「自分さえ良ければ、それでよい」という利己的な考え方で、発想し判断している。だから「すること、なすこと」すべてがマイナスに働いており、コミュニケーションがないため、周囲との協調もなく失敗の連続となる。 それでも「自分は悪くない、正しい」という「我」を押しとおすことを繰り返す。 生きていくうえにおいて、大切なことは「自省する」という一語に尽きるといってよく、慈悲の心、すなわち人の悲しみを自分の悲しみにできる「慈しみの心」を磨くところから出発しなければならない。 そこに気づいて「自浄」すなわち反省である。自省を朝な夕なに繰り返して行うこと、それが人生の第一歩である。 そういう心を持っている人には、なぜか求めているわけでもないのに、不思議と理解者や味方が多くいる。なぜなら、素直であり謙虚さの中で生きているからだ。それが、頭の中を空っぽにしているということである。すなわち「恕」である。 相手の立場にたち、人の役に立とう、世の中の役に立とうする心が成長しているからだ。素直に人の話に耳を傾けて、謙虚になって、人の話を実践してみる。実践して出てきた答えの反省を繰り返して、次に、また、挑戦する。その繰り返しが大事であり、選択肢がたくさんあるのがよい。 |
■良き師・良き友と出会い − 弱い自分を克服する |
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選択肢とは情報のことで、自分の経験則の情報では限りがある。自分の経験則や経験知の情報をすべてだと解釈しているようでは実践に誤りが生まれる。
実は、それが、頭の中を空っぽにしているようでいて、していない証拠である。それが「我」というもので、潜在意識下の滓、つまりヘドロである。
「我」に振り回されるようでは、人間の修養が足らないということだ。素直になって、人の話に純粋に耳を傾けられる心を修養して実践する。その実践の裏側には、人が応援してくれる基があり、いつの間にか、理解者と応援者が増えていることに気づく。
自分ひとりで生きているのではないということの自覚、それが覚り=悟りに通じる。常人の理解を超えているところにモノゴトの真理があり、「いつの間にか」ということが大切で、無意識のうちに周囲の人に応援をしてもらっていたり、良い影響を受けたり、また書物などによって、自らが自らに、知らないあいだに気づくところに真理がある。
たとえば、人との出会いで、知らないあいだに自らの変化に気づくことがある。つまりは、化学反応を起こさせるような触媒になってくれる書物や人が必要であり、特に、良友や良き師に出会えた人は成長するようだ。
この世に生を受けたかぎりにおいて、それぞれの成長に伴って、親兄弟・友人・先輩・先生・上司・同僚と、挙げればキリのないくらいに人との出会いがある。
運命を決するような、良き友、良き師との出会いがほしいものだ。
ところが、である。
良き師に出会っているにもかかわらず「ボヤーッ」としていれば、また、ナンの気づきもないようでは目の前のチャンスは逃げてしまう。
「ニワトリが先か卵が先か」の論争をしても始まらないが、自分を磨いていく中において、良き師との出会いがなければ磨かれることはない。
ダイヤモンドは、ダイヤモンドでなければ磨くことができないのと同じだ。師がダイヤモンドでなければならないし、その良き師の影響で人間形成ができると言ってよい。
また、指導する側も、される側も、そのときの状況によって反転・逆転することがある。たとえ師といえども、教えられる側が師の気がつかないことを言えば、そのことに感心を示して褒める広い心を持っていなければならない。つまりは譲る心がなければ、世の中は成立しないし、人材は真の人財にはなりえないということだ。
その一方において、自分自身との向き合いが大切だ。実は、自分の心の中にダイヤモンドがあり、また、自分がダイヤモンドでなければならない。
ひとことで言えば、強靭なまでの自分を作るということだ。自分にウソをつかない、自分との約束を守って、弱い自分を克服できるかということにつきる。
誰の記憶にもあると思うが、たとえばテストが近づいてくる。今度こそという思いで、念入りにテストのスケジュールを立てるが思い通りにいかない。
「まぁー、明日でいいか」ということで、このような簡単なことにでも自分に負けてしまう。そして、前日に一夜漬けでテストに望む。それで、良い成績が取れるわけがない。あーあの時に・・・・後悔、先に立たずというわけだ。
自分との簡単な約束ですら克服することができない。
しかしながら、自分に厳しく、自分を超えていくところに人間形成の要諦がある。そういう弱い自分を克服できると、自分の心のなかに核融合作用のようなものが起きるようになる。その核融合作用が自分を強くしてくれる。
一旦、核融合作用がおきると、諦めることなく辛抱して続けることや人が諌めてくれることに謙虚になれて、素直に耳を傾けられる。それを実践することができるようになる。
それを大切にしていれば、かならず自分の命に感謝できる。つまり生きているという命に感謝が芽生える。こういう考え方を続けていると、さらに自分を克服する目標や目的意識が生まれて、自分を第三者の目で、自分を客体として見られるようになる。
それが見えてきたら、人生が自分の想いのままになる。
ところが、このような本物や本質的なことを追求すればするほど、世の中の制度や仕組み・慣習・習慣から取り残されていく。
「清い水に魚は棲まない」の喩えがあるようにだ。
私は今日、「人財が一流の知的企業を創造する」と言ってきた。人は一流になるまで、辛抱して続けることを一生の仕事にしなければならない。
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