知の領域を学ぶ

 

時代は技術革新を求めている。橋本流“イノベーション基礎学”のススメ最終回

人材から人財に人を磨き上げる <後編>

 
 

 
 

人と人の間に生きている

 
   

 前回の内容を、視点を変えて考察する。
 社会は人と人が関りあって構成されて、その秩序のうえに成立している。自分一人では社会は構成できないし、二人でも社会は構成できない。三人以上いて、はじめて社会という核が成立する。つまり三人が最少人数の核となって、社会というものが構成され、生活が営まれるようになる。
 その社会には、必ず上位下位が生まれる。それが秩序となりルールが生まれて、そのルールを円滑に機能させなければ争いが生まれる。円滑な社会は、約束事を履行するという簡単なルールづくりから始まり、人数が増えていくにしたがって、そのルールは複雑になり、その複雑なルールが組織を動かすようになる。
 それまで〈烏合の衆〉的に無秩序状態にあったコミュニケーションを、理路整然と秩序のあるものに変化させ、社会を牽引していくリーダーが、そこで誕生する。
 そこには、リーダーのコミュニケーション能力によって様々な力がコントロールされ、人々が話し合いや申し合わせをする社会の在り方に導かれ、秩序ある組織が作られる。そこにはさらに組織の運営を決定していく機構や機関が必要となり、それらを運営・運用する法制度・約束事を徹底するために新しい組織が生まれる。
 組織内においてルールを円滑に機能させるには、人と人との関りの中で「人の役に立つ」という精神、つまり哲学がなければならない。そうでないと、人は社会や組織の中では通用しない。社会は人と人の関りあいで循環していることが大切であり、止まると腐敗する。実に厄介なものである。
 しかしながら、それが自然界の摂理であり真理というもので、動植物、すなわち生きとし生きる全てが、互いに関りあって生きている。生き物は、生き物の命で生きていて、単体で生きているということはあり得ない。つまり循環である。
 そのような意味で、人間だけが自然界の中において特権的な何かを持っているということはありえない。もし、あるという人がいるならば、その人の驕り昂ぶりであり驕慢にすぎない。
 人間というのは、人と人の間と書く。つまり、人と人の狭間「あいだ」で生きるということである。自分一人で生きることなど「できる話」ではない。つまり、人とのコミュニケーションを取りにくくなるということは、世間を狭くするということに他ならない。
 世間が狭くなるということは、社会生活がしにくくなるということで、組織から疎外される。厳しい言い方であるが、それが世の中で自然界の優しさというものである。
 なぜなら適者生存という事実があるからだ。だから自分を磨いて自分を成長させなければならない。成長なくして人間と言えるかということも自然界の摂理であり真理であり、自分を磨く「磨き方」を学ばなければならない。
 世の中の役に立つということを真剣に学習しなければ、人材が人財に変化するということはない。
 いわゆる自然の摂理、俗な言い方をすれば天から与えられた特権は、考えるという思考能力を持たされたことである。それは、秩序というルールを作り、それに従って生活を営み、社会を構成し、社会を生活のしやすいようにコントロールしているということである。それが、人の役に立つ生き方というわけで、自然界の掟と言ってよい。

   
 

天地自然の理を知り、学ぶ

 
   

 本題に入ろう。私が言いたいのは、天地自然の理を知ることであり、学ぶことである。
 「人間が万物の霊長と言われるのは〈知〉があるからだ。この知を磨くことで、誰でも、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるという神がかり的なことができるようになる」こう言えば耳を傾けてくれるだろうか。
 「こういう霊能力者のようなことを掌中にすることで、世の中・社会が求めるもの、また人が欲しがるものを商品化できたり、またサービス化できる。誰もが悩むことを悩むことなく、いとも簡単に富を手に入れることができる」と書けば、その本はベストセラーになるだろうか、そのような安直な方法があるだろうか。
 この世の中に、そういう神がかり的なことはある訳がないし、あってはならないとも思う。
 前回書いたように、素直に謙虚になって人の話に耳を傾けなければならない。苦労して、ノウハウを身につけなければならない。
 そうしなければ、苦難の壁にぶち当たったときに、その壁から弱い自分の逃避癖が出るからだ。それが、前回書いたテスト勉強のスケジュールの話になる。
 さて、我々人間が万物の霊長であるのは「知」「思考」があるからだと書いた。その「知」は誰にでも備わっており、それを磨くか、磨かないかは一人一人の心構えにかかっている。
 つまり功利的な心を捨てて、純粋に「人の役に立つ」こと、いつ如何なる時も、それを実践している心=気構え=精神を持っていなければ本当の「知」=『知』は磨かれることはない。それが最低条件であり、人としての基礎・基本である。

 さて、ここで『知』を磨くために、知を「知識と知恵と英知」の三つに分けて考察する。  知識は、本を読んだり、話を聞いたりすれば身につく。小賢しい話のできる人がいるが、実は、無責任なところで小賢しく騒いでいるだけだ。議論の反対側を見つけて、そこを攻めればよいだけのことだ。評論家という人には、こういう人が多くいる。つまり、自分では何もしないで反論のための反論をする。こういう人に言えることは、彼らは賢く見えるが、中身は何もないと言ってよく、知識が見識に高まっていないということだ。
 知識を見識に高めることが重要で、そこに説得力が生まれてくる。団塊の世代から上の年齢のジャーナリストは、一つの取材に命を懸けていたと聞く。今のジャーナリストは、HPや電話取材で終らせようという傾向がある。全てとは言わないまでも、そういうジャーナリストが存在するのは確かだ。
 上滑りのニュースを読まされているのは私たちで、物事の真意を汲み取ることなく瑣事瑣末なことに流されているのが現実である。
 こういう記事から得たものは単なる知識だ。知識が必要ないのではなく、得た知識を活用し、行動に移し、苦労して実践する中から知恵が身についてくる。つまり見識と知恵は同義語だと言ってよい。
 知識と知恵が身につくと失敗することがなくなるということが不思議だ。これを幾度となく繰り返していくと、英知という真理・真髄が理解できるようになる。
 英知とは、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえることである。つまり、人間の五官に感じられないものが感じられるようになる。第六感・勘と言えるもので、これを胆識と言ってよい。つまり、「が坐っている」とか、「肚ができている」とかいうものだ。
 そういうものができてくると、インスピレーション、閃きが生まれる。悩みや苦労がなくなって、いつもインスピレーションのようなものに包まれるようになる。
 それが英知というものである。
 たとえば、植物は二酸化炭素を吸収して光合成をして酸素を大気に放出する。この自然界の摂理を誰が作ったのであろうか、人間には、生き物である植物の種すら作ることはできない。
 こういうものは、何処から生まれてくるのであろうか、このような生成化育を行っている根本に、大気中の気(エネルギー)があるとするならば、その気(エネルギー)を自分の体の中に取り入れることができないか、そうすることができれば自由自在の人生が送れるようになるのではないだろうか、とするのに疑問を抱く余地はない。

   
 

人間を磨くこと・人を育てること

 
   

 そこで、人間が持つ力を八つに分けて考える。
 先ずは観察力、次いで直観力、発想力、想像力、判断力、決断力、実行力、反省力が身につけば、人生堂々と生きられる。
 さらに考察を深めていく。
 人という中には、客もいれば、社員もいるしサプライヤーもおり、社会の構成をなすのは人であると先述した。
 ところが商品やサービスを、すぐに金銭(利益追求だけに終始する)に置きかえてしまう。現代の日本にる「自分さえよければそれで良い」という利己主義社会がそうさせるのか、それとも、時代の移り変わりとともに、人の心が変化することによるのか、先読みがしにくい。
 デパートの2009年の売上げが、前年比二桁の大幅ダウンをしているが、デパートでモノが売れない原因は、経済の失速によるものなのか、購買層の変化によるものなのか、もしくは時代の変遷によるものなのか、デフレ経済によるものか。その原因は、全てに対してYes,と言えるが、全てがそうだとも断言できない。
 私見を言うと、社会を構成している人々の心理を粗末に扱っているからだとも言える。その答えは、JALの経営実態を見れば理解ができるし、また、トヨタのリコール問題もそうであると言ってよい。
 つまり、日本のモノづくりにサービスの精神がなくなったからだ。
 JALは、サービス業でありながら、はじめからサービス精神の持ち合わせがない。これは論外だが、総じて、利益追求(絶対市場主義)だけの経営をしたツケが回ってきたと言ってよい。
 これまで述べてきたように、サービスを金銭に置き換えて考えてしまうと物事の本質が見えてこない。本質の見えないところに、本物の消費者に喜んでもらえるモノづくりは育たない。
 サービスというのは、人の気持ちを満足させることに尽きる。人の気持ちや心は、地域によって異なる。トヨタなどは品質管理と称して、通り一遍のコスト削減を優先した結果に他ならない。

 私は、日本のモノづくりの方法が世界に通用しなくなっていくのではないかと危惧する。社会全体が細分化されてしまって、全体を構想して俯瞰する人間がいなくなっている。
 つまり、日本の未来のグランドデザインを描く人間がいなくなっている。知識・見識・胆識を持って、コトに当たる度量のある人間がいなくなっている。
 瑣末な議論にをぬかし、議論のための議論をやっている。机上の空理空論では、人は動かない。
 日本には、地球規模的に日本の国を憂う人、世界全体を俯瞰して、戦略的に国家構想を練れる人がいなくなった。日本丸は、何処へ行こうとするのか。
 つまり、日本の未来の指針と方向性を示す「舵取り」に命をかける国士がいなくなっている。こういうことが、日本社会全体におきている。

   
 

 
   

  政治も然りだ。松下幸之助翁の高邁な心で創ったはずの「松下政経塾」も形骸化しようとしている。企業経営のあり方を政治に取り入れるということを本来の目的にしていたはずのものが、いつの間にか、政治屋になってエゴの塊りになっている。
 つまり、企業の利益追求だけが先行して、社会が置きざりにされていく。社会を構成する弱者救済の法律を施行するが、それが本来の自然の摂理の理に適っているのかどうか。真の意味での思考力に欠けているような気がしてならない。
 政治屋になった人たちは気づかないと思われるが、俯瞰の目で眺めると、空理空論を実際の政治に生かそうとしても、それは生きないことは分かりきっている。それを無理矢理にやってのけようとする。
 身体に服を合わせるのか、服に身体を合わせるのか、本末転倒もいいところである。
 野党のあいだは空理空論でもよい。政権を掌握する与党になれば、口角泡を飛ばしていた野党時代と同じでは国民から見離される。国際的に通用する国家戦略の構想を練るチームを立ち上げなければならないときである。日本の政権与党の内情で、国際貢献を口約束するのは止めたほうがよい。
 政治も企業経営も同様で、テクニックを駆使し、スキルアップを図ることよりも、人間を磨く、つまり人間形成を第一義に考えることが先決である。つまり、人を育成することが急務である。
 業務の運営・運用スキルを身につけることよりも、急がば回れで人財を作ることが先決である。
 万物の霊長である人間は、「知識・知恵・英知」の『三知』を磨くことから始めなければならない。企業は人で構成されており、組織で動いている。
 人が人の役の立つことを学習させるのが企業の責務であり、それが日本社会を良くしていくことになる。
 目先の利益(資本家への利益供与)だけにこだわることなく、生産効率を上げるためのテクニックやスキルを身につける教育ではなく、自然の真理・摂理を教育していくことが人材を人財にかえることに繋がる。
 紙幅の関係で、イヨイヨ最後の詰めに入ってきた。
 最近のインターネットワークによって情報が氾濫するようになっている。驚くべき情報量である。人間が自然の摂理を知らなければ、その情報の量に侵されて中身が分からなくなる。判断の基準や決断の時を逃すことになる。
 たとえば、今日、耳に入り、目に入ったことを「これはこうです。このようなことです」という実情の報告をしたり、連絡だけをしていると、その情報は「くだらない」何の役にも立たないものである。
 報告や連絡の目線を変えれば「今日は、こういうことを見て、聞いて、解決は、こういう理由で、こういうような解決が望ましいと思います」「その解決策には、こういうような手段方法があります」。
 情報を分析し、そこに潜在している問題・課題を取り出して、解決のための選択肢をいくつか用意して、その中から最良と思うものを実践する。
 つまり、自分なりの意思決定であり、責任を持つということである。情報の処理方法が甘くデタラメだと判断のしようがないということになる。
 人間を磨くと情報の処理方法が適正に行えるようになる。このことは、いかなる戦略を練るときにも必要なことであり、つまり、組織を運営、機能させるのも、マーケティング、生産、販売、労務、会計・財務の管理も、人が管理をするわけだから、先ずは、人育てから始めて、人財に変化させることが肝要である。
 つまり、この世は人の世の中であって、金やモノの世の中ではないという一語に尽きる。人育てが企業を未来に向かって繁栄させ、成長させる原動力になる。
 人財の育成は、企業の発展ばかりでなく、日本経済の成長戦略の要になることもつけ加えて筆をおく。

 13回に渡って、Webでお付き合いいただきましたが、何らかのお役に立てたでしょうか。実は、そこが最も気になるところです。

 ありがとうございました。読者の皆さんと編集の皆さんにお礼申し上げます。